森羅万丈

はてなダイアリー(~2017)から引っ越し、心機一転リスタートです。

戦国演義蒼炎風雲録 1話「滅亡と逃亡」

――天正十年(一五八二年)。
――かつて「甲斐の虎」と名を馳せた武田家は、
――度重なる戦によって国力を削り取られ、その命運は風前の灯火となっていた。
――また、武田家の喉元に刃を突き付けて久しい織田家は、
――各地の制圧あるいは服従を続け、天下統一も近いと噂されていた。
――収まるかに思えた時代の波は、しかし、更なる荒波となって皆を襲う。
――これは、そんな波乱に満ちた時代の中、
――それぞれの思いを貫き、生き抜いた者たちの物語である。

******************************************

「最後の一本。いざ、参る!」
「てやーーーーーーっ!」
 方や、紺の着物を纏った、質素な身形の若者。
 方や、朱の装束を纏った、派手な外観の少年。
 見事なまでに対照的な二人が、揃いの竹刀を握って対峙し、打ち合いを始めた。
 体格的には、年長と見える若者の方が有利。
 しかし少年の竹刀捌きは素早く、打ち合いの優劣は五分と五分。
 否、時間を追うごとに少年の竹刀捌きは鋭さを増し、若者は次第に追い詰められていく。
 そして、遂には、若者の竹刀が弾き飛ばされた。
 勝負あった、と、思われたのだが。
「勝ったっ! マジカルソーード!」
 駄目押しとばかり、面妖な片仮名言葉を叫びながら、少年は力一杯に竹刀を振り下ろす。
 その竹刀を、若者は両手で挟み込むや、力を込めて奪い取った。
「…一本取られたと言いたかったが、最後が余計だったな、源次郎」
「なんでー? 最後は必殺技で決めるのが常識でしょーっ?」
「一体全体、それは何処の常識なのだ… とにかく、戦場では敵を討ち取ること、それだけを考えるのだ。余計な心持は命取りになると、肝に銘じるのだぞ」
「はーい」
 返事だけは良いが、まともに聞いていないことは誰の目と耳にも明らかだった。
 そんな、緩んだ空気を漂わせる兄弟の耳に、一転、緊張感に満ちた声が響いた。
「源三郎様! 源次郎様! 一大事にございます!」
 現れたのは、忍び装束に身を包んだ青年。
「あー、佐助だー」
「佐助、一大事とは何事か?」
「はい。迫る大軍を如何にして迎え撃つか、その策を練る軍議に、殿も参加しておられたのですが… その席上、謀反の疑いを掛けられてしまったのです」
「むほん?」
「馬鹿な… 父上が武田に背くなど、有り得ない。一体なぜそのような…」
「説明の猶予はございません! 今こうしている間にも、武田の兵が御二人を人質にするため向かっております。一刻も早く、この城を脱出しなければなりませぬ!」

 少し、時を遡る。
 武田家の敵は織田家だけではなく、
 以前から織田家と同盟を結んでいる徳川家とも同時に戦わなければならなかった。
 西から攻める織田家と、南から攻める徳川家に対し、武田家は防戦一方。
 しかも、東の北条家まで隙を伺っており、八方塞がりの状況下で、
 軍議の席上、一計が提案された。
 提案の主は、兄弟の父、真田昌幸であった。

 提案の内容は、甲斐(山梨県新府城を捨て、
 防衛の拠点を、真田の支配下にある上野(群馬県岩櫃城へ移すこと。
 思いもよらぬ提案に、臨席の重臣達は一斉にどよめいたが、
 当人は至って平静、涼しい表情であった。
「織田と徳川の軍勢を合わせれば十万人。戦えば、どんな策を立てたところで、勝ち目はゼロ。この戦に勝つ方法… いや、負けない方法は一つだけ。『戦わないこと』さ」
 岩櫃城は天然の要害と呼ぶに相応しい地形に立てられた山城であり、
 移動だけでも大変な労力を要する。
 つまり、本来であれば敵を圧倒するだけの大軍が、逆に仇となる。
 城へ辿り着く前に、十万人もの大人数を養うための兵糧が尽き、撤退せざるを得ない。
 稀代の策士として名高い昌幸らしい、起死回生の策と思われた、が。
「見事な策ですね、まさしく真田の棟梁に相応しい… と、ボクが言うとでも思っていたんですか?」
 昌幸ほか、家臣団一同の前に鎮座する当主、
 武田勝頼から発せられたのは、思いのほか冷たい言葉と表情。
 そして、昌幸の目の前に、勝頼は一通の書状を放り投げた。
「北条家の領土、東に向かう忍者を捕まえて入手した密書です。差出人は真田昌幸、内容は『武田勝頼を我が城に迎え次第、その身柄を北条家に引き渡すので、侵攻は止めてほしい』だそうですね」
「なんと…!」
 真っ先に、武田家筆頭家老の跡部勝資が怒声を発する。
 対照的に、昌幸は書状を一瞥しただけで、顔色はまったく変えない。
「勝頼公のみならず、先代の信玄公より賜った恩も忘れ、己の保身に走るとは… 見損なったぞ、真田安房守!」
 その間にも、異変を察知して武器を構えた侍達の足音が迫る。
 昌幸、万事休す。
 そう思われた矢先、軍議の場が白煙に包まれ、視界が遮られる。
 侍達の到着よりも早く、佐助が煙球を投じ、昌幸の退路を確保したのである。
 果たして、白煙が消え失せた後、昌幸の姿は無く、
 侍達は昌幸を探して右往左往する羽目になった。
「それにしても、まさか真田まで裏切りを企てていたとは…」
「フフン。勝資、何を言ってるんです? この密書、他ならぬボクが作った、真っ赤な偽物ですよ」
「…はぁ!?」
 既に侍達だけでなく、重臣達も昌幸を追いかけていたため、
 室内には勝頼と勝資だけが残っていた。
 この二人は、単なる主従関係に留まらず、私的にも親しい関係を築いていた。
 その勝頼から、予想もしない言葉が発せられては、声が裏返るのも無理は無い。
「一体、何を考えて、そんな…」
「昌幸の策には、たった一つ、致命的な欠点があるからです」
「それは…」
「御屋形様の御体、ですやろな」
 ふらり、と室内に足を踏み入れたのは、武田家家老の長坂光堅
 以前は跡部勝資と同様、武田勝頼の側近中の側近として尽力していたが、
 武田騎馬隊が織田鉄砲隊に屈した「長篠の戦い」にて徹底抗戦を唱えた責任を問われ、
 今は軍議へ出席する資格を剥奪されていた。
 だが、光堅を除く家臣の中で唯一、勝資だけは真実を知っていた。

 家督相続後も長らく武田軍は連戦連勝を続けていたが、
 その間、勝頼は人ならざる者、いわゆる「悪鬼」に心を半ば支配され、
 その対価として騎馬隊に尋常ならざる士気を与えていたのである。
 亡き父、偉大なる戦国武将、武田信玄を超えたいと思ったが故の、過ち。
 やがて勝頼は過ちを悔い、己の中から鬼を追い出すことに成功したものの、
 滅ぼすには至らず、その鬼が次の標的としたのが、他ならぬ織田信長であった。
 勝てぬ戦であることは、勝頼自身が誰よりも理解していた。

 戦後、光堅が「出兵は自分の発案」と述べて庇ったため、
 勝頼の求心力低下は免れたが、かつて鬼を宿した後遺症は体に残った。
「昌幸はんの策に乗ることも出来ないほど、体が… そうですやろ?」
 勝頼は、光堅へ答える代わりに目を背けたが、その視線の先には勝資の姿があった。
「……何、ボーッと突っ立ってるんです? 織田の軍勢が討ち入りに来るのは時間の問題です。逃げるなら今のうちですよ」
 少なくとも表面的には、いつも通りの軽口が、勝資を我に返らせる。
「悪い冗談を。我ら、武田の武士として、勝頼様の臣下… いや、友として最期まで戦う覚悟は揺るぎませぬ。のう、光堅?」
「そうですなぁ」
「………バカですね、二人とも」
 目を背ける先が無くなった勝頼は、潤む瞳を隠すように目を閉じ、そして祈った。
(父上… もうすぐ傍へ参ります。その時は、勝頼をたっぷり叱ってくださいませ)

******************************************

――三月十一日、武田勝頼は、僅かな忠臣と最期の戦いに臨み、そして散った。
――この抵抗が、天下統一を目前としていた織田信長の覇道に綻びを生み、
――僅か三か月後、歴史が大きく動くことを、今はまだ誰も知らない。