森羅万丈

はてなダイアリー(~2017)から引っ越し、心機一転リスタートです。

戦国演義蒼炎風雲録 2話「武士達の隙間風」

――天正十年(一五八二年)春。
――武田家が滅亡し、本来の主を失った、甲斐の新府城
――その城内にて、主を攻め滅ぼした者達が、言葉を交わし合う。
――後に、江戸幕府を開き、戦国の世に終止符を打つこととなる、徳川家。
――その初代将軍となる主君・徳川家康と、
――彼を側近として支え続けた、いわゆる「徳川四天王」と称えられる四人である。
――無論、この時はまだ彼等自身、未来の姿を知る由も無い。

「信長公から沙汰がありました。武田家の領地、甲斐・信濃・上野・駿河のうち、駿河を徳川家に任せるとのこと」
 側近中の側近たる四人を前に、本人は、至って落ち着いた口調で語り掛けた。
 甲斐(山梨県信濃(長野県)上野(群馬県駿河静岡県)に跨る
 広大な領地を有していた武田家を、織田家との共同戦線とはいえ
 滅亡に至らしめるほどの大戦を終えた直後ながら、普段と変わりない様子。
 口さがない者からは『三河のぼんやり』と呼ばれてしまう所以である。
「残りの三国は、当面、織田家と徳川家で共同統治とのこと。もっとも、織田家が統治活動に専念するため、我々に武田軍の残党処理を任せたいというのが本音でしょう」
「つまり、引き続き織田家の下働きをしろと… おのれ信長! どこまで殿と我々をコケにするつもりか!」
「お、落ち着いてくださいっ。お怒りはもっともですが、あまり騒ぐと体に障りますっ」
「う… 若さゆえの純粋な思いやりと優しさが身に染みる… でも同時に複雑な気分…」
 家康の説明に激高した、最古参にして最年長の酒井忠次を、
 新参かつ最年少の井伊直政が懸命に宥める。
 この時、忠次は五十六歳、直政は二十三歳、年の差は二倍してなお余るほど。
 その二人が話す光景を、同い年の二人、
 榊原康政本多忠勝が見遣り、申し合わせたように笑みを浮かべた。
「相変わらず、同輩というより親子にしか見えん。なぁ、忠勝?」
「もー。忠次さんに聞かれたら、もっともっと怒られてしまいますよー?」
「確かに。これ以上、忠次殿の寿命を縮めさせるわけにはいかんな」
 主君も主君なら家臣も家臣なのか、会話がことごとく緊張感に欠けること甚だしいが、
 当の家康も咎める様子はまったく無く、淡々と話を続ける。
「それに伴う諸々の面倒は家臣に任せ、私は信長公に同行して西上せよ。京の都と堺の街で歓待の準備をしておく、との仰せです」
「…何と?」
 それまでの無駄口が嘘のように、四人は一斉に押し黙った。
 つまり、家康の言葉を、誰一人として真に受けていないということである。
「皆の懸念は当然ですが、断れば、私に背信の意思が有ると受け取られるでしょう。むしろ、そう受け取られても反論の出来ない状況を作りたいのかもしれません」
 四人の反応は織り込み済みと言わんばかり、家康の発言には一切の言い澱みが無い。
駿河の統治と、甲斐方面における織田家の支援は、忠次と直政にお願いします。康政と忠勝は私に同行、ただし武将としてではなく付き人として、身分は隠してください」
「…承知!」
 四人は深々と首を垂れ、主意への賛同と、揺るがぬ忠義を示した。

――同じ頃。
――真田昌幸と、二人の息子は、それぞれ甲斐を脱出し、岩櫃城へと辿り着いていた。
――他国の侵攻が及ばぬ地での、穏やかな生活。
――だが、それが束の間の夢に過ぎないことは明らかであった。

「父上!」
 いつものように、弟との剣術稽古を終えた兄が、荒々しく障子を開く。
 その奥には、畳の上で寝転がり、背を向けている父の姿。
「何だ源三郎、騒々しい。うるさくて昼寝も出来んぞ」
「昼寝などしている場合ですか! 既に信長も家康も引き揚げ、残っているのは家臣のみ。今、立ち上がらずして、いつ立ち上がると言うのですか!」
「立ち上がる? 源三郎、お前は一体、何をするつもりだ?」
「勿論、勝頼公の無念を晴らすべく、織田と徳川の軍勢と戦うに決まっているではありませんか!」
「戦う? それで勝ち目はあるのか?」
「勝ち目の有る無しは問題ではありません! ただ、何もせずに指をくわえて毎日を過ごすばかりで、どうして真田が武田から受けてきた御恩を返すことが出来ましょうか!」
「…源三郎。お前、本気で言ってるのか」
 水掛け論も同然の遣り取りが続いた後、ようやく、父は子と視線を合わせた。
 もっとも、半身を翻しただけで、寝転がる姿勢は崩さないままである。
「この岩櫃城に辿り着くまでの間、俺やお前達は誰に追われていた? 織田や徳川の軍勢でなく、俺を謀反人扱いした武田の兵だぞ」
 海千山千、これまで幾多の修羅場を抜けてきた昌幸はいざ知らず、
 まだ若い兄弟は、佐助の助けを借りながらようやく追撃を振り切ることが出来た。
 もし逃げ切れなければ、捕まるだけで済まず、その場で斬られていたかもしれない。
 だが、息子は一切の躊躇無く言い返した。
「何かの間違いです! 勝頼公が父上に、いや、真田に謀反の疑いを持つなど、断じて有り得ません!」
「…そこまで言うのなら、そういう事にしておこう。だが、あの軍議の席上、俺を庇うどころか、書状を見せ付けてきたのは、他の誰でも無い、勝頼公だ。その事実がある以上、俺は好きなようにさせてもらう」
 冷淡に言い放ち、一向に立ち上がる気配の無い父の姿を前に、
 子の顔はあっという間に紅潮した。
「もう良いです! 父上と話そう等と思った私が阿呆でした!」
 来た時と同じく、荒々しい音を立てて障子が閉じられ、足音が遠ざかっていく。
 その様子を、父は耳だけで追いかけていた。
「…今に始まった事じゃ無いが、俺に似ず、真っ直ぐに育ったものだ」
 そう呟いた後は、強制的に中断させられた昼寝の再開を決め込むのであった。

「必殺っ! マジカルダーーツ!」
 血気に逸り、たとえ単身でも出陣する気が満々だったところ、
 場違いに能天気な弟の掛け声を聞いた兄は、ずっこけた。
 見れば、竹刀の素振りを指示していたのに、
 今は佐助に見守られながら、手裏剣を投げる練習に夢中な様子である。
「…源次郎。お主は侍でなく、忍びの者になるつもりか」
「えっとねー。強くなりたい!」
 厳しく問い詰めた筈だったが、斜め上を行く弟の返答に、兄は再度ずっこける。
 おかげで、つい先程まで自身を駆け巡っていた血気が何処かへ行ってしまい、
 脱力感だけが後に残った。
「源三郎様。浮かぬ顔をされておられましたが、何か?」
「ああ…」
 佐助が、今では無く先程までの顔を気にしていることを察し、
 父との会話の一部始終を話す。
 すると、佐助の表情が怪訝になった。
「殿は、源三郎様に、何もお話しになっていないのですか」
「何も、とは?」
「拙者、この地に戻るまでは西方を偵察しておりました。その際、強固に見える織田と徳川の同盟は実のところ脆弱、今のうちに家康を亡き者に出来ないかと、信長の家臣が色々と策を弄していることを知ったのです」
「何と…!?」
 衝撃のあまり、まるで横っ面を全力で叩かれたように、目の前で火花が散る思いがした。
「たとえ全面的な戦にはならずとも、織田と徳川の間に何らかの争いが起きれば、この辺り一帯は間違いなく手薄になる。動くならば、その時を置いて他に無いと、殿は仰せでした」
「…何故、父上は正直にお話にならぬ!」
 怒声は父に対しての物であったが、目の前の佐助が思わず身を縮め、
 弟が手裏剣を投げる手を止めて見詰めるほどの迫力があった。
「いつもそうだ! 父上は、いつも腹の内を明かさぬ! 子である私にも… いや、きっと父上は、私を子とは思っておらぬのだ!」
 程無く、涙が頬を伝うのを感じたが、
 それを拭おうとはせず、ただ拳を強く握り締めていた。

――信長と家康の一行は、四月に駿河へ滞在し、
――五月に入って尾張・安土を経由し、京へと入った。
――明けて六月、遂に、運命の日が訪れる。