森羅万丈

はてなダイアリー(~2017)から引っ越し、心機一転リスタートです。

戦国演義蒼炎風雲録 3話「本能寺の変」

――天正十年(一五八二年)六月二日、早朝。
――織田家当主・信長は、武田征伐を果たして東の憂いを絶った後も、
――その苛烈さを止める気配はまったく見られなかった。
――既に交戦状態にあった中国地方の毛利家のみならず、
――四国地方の長宗我部家とも、全面対決の様相を呈していたのである。

――だが、それらの戦いの前線に、信長の姿が現れることは無かった。
――この日、信長が僅かな人数の従者を連れて滞在していた寺院は、
――深夜のうちに行軍していた兵士達によって、完全に包囲された。
――襲撃を指揮した者の名は、明智光秀
――いわゆる『本能寺の変』である。

「光秀め… よもや家康ではなく、我が殿に刃を向けるとは」
 かがり火に照らされた、周囲を何重にも取り囲む旗印。
 それを睨む若者の声は、苦渋に満ちていた。
 声の主は、信長の護衛役、森蘭丸
 彼は、光秀が兵を集め、昨日のうちに出陣していたことまで承知していた。
 誤算だったのは、今しがた、彼自身が口にした通り。
 武田征伐で共に戦った徳川家康を、いずれは信長の脅威となるので
 今のうちに抹殺するべしと、重臣柴田勝家が提案。
 これが通り、家康を京に招いたところへ光秀が刺客を差し向ける手筈となっており、
 出陣自体に何ら疑う点は無かったのである。
 勝家は「誘導大作戦」などという大層な名前を付けてご満悦だったが、
 ただでさえ、たまにしか決まらない大作戦が、ここ一番で真逆に決まったと聞いたら
 どんな顔をするだろうかと、蘭丸は詮無いことを考えた。
 建設的な打開策を考える気も失せるほど、絶望的な状況であることの裏返しである。
「…だが、殿の『力』があれば」
 人ならぬ身、いわゆる「悪鬼」を宿し、その力をもって
 兵の力を限界以上に引き出し、不利な戦であろうとも勝つ。
 圧倒的な兵力の差がありながら、取り囲む軍勢は投降を呼び掛けることも無ければ、
 突入もして来ないのも、おそらくは信長の能力を警戒しての事であろう。
 ならば、絶体絶命と思える状況も、諦めるには早いということになる。
 蘭丸は、数少ない手勢を鼓舞し、軍勢との睨み合いに一歩も引かぬ覚悟を示していた。
 
 だが、蘭丸の思いとは裏腹に、信長は殿中で苦悶の表情を浮かべていた。
 これまで幾度と無く発揮してきた「悪鬼」の力が、この土壇場で振るわれるどころか、
 逆に、己本来の力さえ抜けるような感覚に、苦しんでいたのである。
「むう…?」
 厳重な人払いを命じているにも関わらず、感じた気配に、信長は顔を上げる。
 肌寒い早朝にも関わらず、汗にまみれた表情が、否応にも己を襲う異変を物語っていた。
「蘭丸? …いや、光秀、か」
 信長が声を発した時には、まだ、侵入者は姿を見せてはいなかった。
 しかし、襖を開けて信長の目の前に現れたのは、確かに、明智光秀その人であった。
「姿が見えなくても、気配だけでわかる… さすが、だね」
「光秀。余の『力』が妨げられているのも、貴様の仕業か?」
「そう、だよ。殿様が武田を攻めて、留守にしている間に… 結界を、作らせてもらったから、ね」
 先日の武田征伐において、兵力差を鑑みれば勝敗は火を見るより明らかであったが、
 当主・勝頼は最期まで戦い抜くという意思を鮮明にしていたため、
 最終的には信長自身も出陣せざるを得なかった。
 無論、勝頼は未来を予見していたわけでは無いが、
 自身の命と引き換えに稼いだ「時」によって、
 今度は信長が絶体絶命の窮地に追い詰められている。
「思えば、家康を誘き寄せて暗殺するなどと、勝家らしからぬ策とは思ったが… この本能寺に、余を滞在させることも含め、全て、貴様の入れ知恵だったというわけか」
「私だけじゃない、けどね。というか、大体は、左馬助が考えてくれた、よ」
「ふん… 自慢の婿殿か」
 実の名を明智秀満と言う、その者は光秀の娘婿に当たり、
 文武両道に優れた傑物との呼び声高い人物である。
「…それにしても、何故、兵を突入させるどころか、のこのこと一人で来た? 余が死ぬ前に、もはや力を振るうのもままならぬ姿を、嘲笑いにでも来たか?」
「違う、よ。私は、取り戻しに、来たんだ… 本当の殿様を、ね」
「何だと…?」
「私は、弱気だし、ジメジメした性格だから、いつも隅っこで、じっとしてた… 今でも、そう、だから… 殿様の気持ち、わかる、よ。何かの力を借りて、やっと、何かを出来る。一人じゃ、何も、出来ない… けど… 絶対に借りちゃ… 自分のものにしちゃ、いけないものだって、ある… だろォ?」
「光秀…!?」
 襲撃した側とは到底思えない程、自信の欠片も無い態度と口調だった光秀。
 それが今や、瞳を見開き、真っ向から信長の姿を見据えている。
「それでも、借りちまったら、パクっちまったら… そん時は、ごめんなさいって謝って、返すしか無いんだ。実際、甲斐の若殿はそうしただろうが… 他の誰かに出来て、アンタに出来ない筈が無いだろ… なぁ… 信長さんよォォ!!」
「グッ… 余、は…」
「あくまでも、鬼如きに心と体を乗っ取られたまま死にたいってんなら… いいぜ、今すぐこの場でシメてやるよ… それで、弱虫毛虫の明智光秀に裏切られて殺されましたって、無様な最期を孫の代どころか、何百年、何千年、何万年と語り継いで… 永久に、あの世で後ろ指を指され続ける、前代未聞の笑い者にさせてもらうぜェェェ!!!」
「…『笑わせてあげる』とは言いましたけど、笑い者にされるのは、御免ですよぉーーーーっ!!!!」
 今までの尊大な態度とは似ても似つかない、
 悲鳴同然の絶叫をあげて、信長は仰向けに倒れ込んだ。
 その直後、煙のような、それでいて禍々しい姿の何者かが、
 信長の体から浮き上がるようにして現れると、
 眼前の光秀には目もくれる事無く、天井に向かって舞い上がる。
「逃がすかァ! ここで会ったがテメェの運の尽き… 左馬助、出番だぜェェェ!!!」
 光秀の叫び声に応えるように、それまで機を伺っていたのか、
 黒ずくめの目立たない装束を着た若者が、掌中に光り輝く宝珠を握り締めて現れた。
 透き通るように姿を消そうとしていた異形の者の動きが、固まる。
「鬼退治… 成功、だね」
 その若者、明智秀満の呟きと共に、宝珠の輝きが増し、異形の者は吸い込まれていく。
 耳を突き抜ける、絹を引き裂くような音は、断末魔の叫びであったのかもしれない。
 そして、異形の者の姿が消えると、役目を終えたと言わんばかりに宝珠の輝きも失せた。
「殿! …おのれ、曲者どもめっ!」
 その時、異変を察知した蘭丸が、殿中へと踊り込んだ。
 眼前の光景が、仰向けに倒れる信長と、その体を見下ろす光秀と秀満では、
 状況を正確に把握できないのも無理はなく、問答無用に抜刀して切り掛かろうとする。
 気力を使い果たしたのか、立ち尽くす光秀を庇おうと、秀満が立ち塞がる。
 しかし、蘭丸の構えた太刀が振り下ろされることは無かった。
「蘭丸、もう、良い。…もう、良いのだ」
 静止の声を発した信長は、口調こそ元に戻っていたが、
 もはや自力で立ち上がることさえ出来ないほどに衰弱していた。
 かつて武田勝頼もそうであったように、その身に「鬼」を宿した者は、
 たとえ切り離したとしても、拭い去れない後遺症が残る。
 それも、切り離し方が強引であればあるほど、宿主の受ける傷は大きい。
「たとえ、この場を見逃してもらえたところで、一日ともつまい… 光秀、お主のせいで、余の寿命は縮んだぞ」
「…ごめん、ね」
 先程までの勢いが嘘のように、光秀の口調も元通りになっていた。
「だが、礼を言う。お主のお陰で、第六天魔王としてではなく、織田信長として… 最期を、迎えられる」
 言葉は穏やかで、体は力尽きる寸前。
 しかし、その表情は今なお、天下人を称するに相応しい覇気に満ちている。
「光秀、秀満、そして蘭丸。貴様等へ最後に命ずる。今すぐこの寺に火を放て。余の体が、塵も残らぬほど焼けるほど… そして、この日ノ本の代わりに余が統一する、あの世とやらにまで炎が見えるほど、激しく、な!」
「…承知!」
 立場は違えど、主君からの最後の命令に、三人はそれぞれ首を垂れた。

――この時、織田信長、四十九歳であった。
――また、信長を討って天下人に成り代わるかに見えた明智光秀であったが、
――わずか十三日後の合戦に敗れ、瞬く間に、歴史の表舞台から姿を消した。

――信長への謀反を完璧に成功させた緻密さに対して、
――直後の敗戦に至る経過は余りにも稚拙であった為に、
――光秀は、天下人に成り代わる事では無く、
――信長を倒す事に全てを賭けていたのでは、とも伝えられている。

――いずれにしても、確かな事は、一つ。
――絶対的な支配者は失われ、再び、群雄割拠の時代が訪れたのである。